この世界の貌

2011.4.11

京都 木津川の流れ橋とマメ 2007.5

今日は自宅作業にするつもりだったが、仕事がたてこんでいたので出勤することにした。
昼休み、前回は満席で入れなかった、会社の近くの天ぷら屋さんに同僚と足を運んだ。
今日は12時きっかりに会社を出て、まだ席に余裕があるうちに座ることができた。
天丼を注文。とてもおいしい。それにこんなに糠の匂いが残る漬け物は久しぶりに食べた。
全然嫌な臭いじゃない。きっとお店で漬けているのだろう。
混雑し始めた店を後にし、近いうちにまた来ようと思った。

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もう何年も昔、ある人が、日本の平和は薄氷の上に築かれていると書いていた。
当時はよくわからなかったが、この数々の厄災を経験してはじめて
その意味を身にしみて感じるようになった。

3月11日を境に、世界はすっかり変わってしまった。
それは世界そのものが変わったわけではなく、主観が変わってしまったということ、
僕にとっての世界が変わってしまったということだった。
世界は昔も今も同じままだ。いつだって地震は起きるし、津波もやってくるし
原発の脅威も変わりはない。
3月11日に変わったことは、その事実を経験として知ったこと、
そしてその事実と向き合って生きていかねばならなくなったということだった。

あの日、死はすぐそこまでやって来ていた。
死神に手を取られてしまうか否かは、誰にも分からない紙一重の違いに過ぎなかった。
そしてその事実は、これから本当にその日がやってくるまで
問われ続けるのだと思う。

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昨日、眠る前に、京都のおじいちゃんちの庭のシンボルだった柿の木が
痛んでいたために伐られてしまったことと、
おじいちゃんが大好きだった相撲が、今はテレビに映らないことを考えていた。

夢の中で、今はもういないおじいちゃんに会った。
夢の中でおじいちゃんは、長屋らしき小さな木造の家に一人で暮らしていた。
それなりに一人暮らしを楽しんでいるようだった。

目が覚めて、もっといろんな話をしておけばよかったと後悔した。
でも、この日本の惨状を目にする前に、美しい日本を心に抱えたまま
眠りについたおじいちゃんは、幸せだったのかもしれない、とも思った。

僕ができること

2011.4.18

節目に想う 2010.4.3

写真は去年花見に行く途中で撮ったもの。たぶん引っ越しの最中。なぜかとても気に入っている。

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地震が起きてからずっと、自分に出来ることは何なのか考えている。これだ!というものはまだなく、とりとめもないことばかりだが、自分なりに考えたことを残しておきたい。

支援の方法。一般人に過ぎない僕ができることといえば
・直接支援(ボランティアへの参加など、現地へ行って援助する)
・後方支援(寄付、物資の郵送など)
の2つが大きなところだろう。直接支援は何度も考えたが、普段ろくに運動してない自分が体力の低さから足手まといになるところが容易に想像できた。

支援活動は大切なことだが、それは社会における自分の基盤が無ければできないことであり、自分の仕事や、生活のためにやるべきことも同じくらい大切で、どちらかに偏りすぎてもいけない。となると、様々ある後方支援の中でも、援助団体への寄付や、現地の人達への物資の輸送が妥当なとこだろうか。

それから、継続的に支援すること。一度大きなお金を落としたから、とか、落ち着いてきたから、という理由で、興味を失ってはいけない。復興は年単位で進められる。1ヶ月に一度でもいいので、自分に何が出来るか考える時間を作ること。カレンダーに書き込むか、いつも使っているスケジュール管理ソフトに繰り返し予定として入力する。

そして、困っている人々は、福島だけでなく、世界中のあらゆる場所に、ずっと前から存在すること。

誰かが言った。「この震災時に、笑っているのは不謹慎だ」と。では、震災前なら良かったのだろうか。アフガニスタンで爆撃によって家族を失った人がいても、日本でテレビを見て笑っていられるのは不謹慎ではないのだろうか。アフガニスタンは遠い国で、日本にはあまり関係ないから?タジク人が困っていても別にいいけど、日本人が困っているのは辛いから?

宮沢賢治は「世界ぜんたいが幸せにならないうちは、個人の幸せはありえない」と言った。真理だと思う。でも、そんなことを言うのなら、誰一人明るく暮らすことはできなくなってしまう。たぶん日本に住む人全員が、幸せではありえない、ということになるだろう。

答えはない。でも、今度の震災は、そのことを考えるきっかけになったと思う。福島やその他の震災被災者についても考えていかなければならないけれど、困っている人達は世界中にもたくさんいる。被災した人達を身近に感じたことで、遠い国で同じ思いをしている人達まで意識が及ぶようになっていけばいいと思う。