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瞑想日記 37日目

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日記は少し間が空いてしまいましたが瞑想は続けています。

ヴィパッサナー瞑想を本格的に始めて1ヶ月が過ぎました。自分でも以前より心が落ち着いて、イライラする事が減り、穏やかな気分でいられる時間が格段に増えたと思います。最初は少し抵抗のあった「慈悲の言葉」もより深く念じられるようになったし、そのことが日常的に心を落ち着かせる基礎になっていると感じます。また、呼吸に集中するよう繰り返し練習していることが、普遍的な集中力を養うことに繋がっています。例えば何かに集中しようとしていて、気が逸れたときに「あ、今これに気が逸れたな」と気づけるようになりました。「気づき(マインドフルネス)」とはどういうことかという100%の確証はまだありませんが、既に多々瞑想の効果は上がっているように思います。

瞑想中、呼吸に集中しようとして気が逸れたことに気づく時、単なる妄想だけでなく、時折自分の心の奥に閉ざしてあった事柄にも気づくことがあります。自分の嗜好の原因や、無意識に気にかけていることにふと光が当たるかのようです。それらは決して快いものばかりではないのですが、しかし自分について知らなければならないことだと思います。意識のより深いところまで気づきの手が届くようになってきたのでしょうか。

今日の瞑想では、呼吸だけに集中できるこの時間が贅沢というか、幸せな時間の使い方だな、と思えるようになりました。たとえ一時的にでも過去にも未来にも思い煩うことなく、今、呼吸だけを感じていればいい、という時間は、心の軽くなる、ほっとする時間だな、と思えるのです。これは以前よりも集中が深まった結果だと思われますが、集中すると同時にリラックスすることも同じくらい重要だと感じていて、これが難しいです。1ヶ月経ち、瞑想のやり方に慣れてきて、やっと少しずつわかってきたのだと思います。

今まで何かを探してあちこち旅して、外側の世界を様々見てきました。しかし全て知っていると思っていた、目を向けようとも思わなかった自分の内側の世界を、実は何も知らないし、何も見てこなかったのだということを、瞑想を続ける中でひしひしと感じています。瞑想には旅と似たような楽しさがあります。それは知らなかったことを知るという楽しさです。

瞑想日記 10日目

朝9時/20分間

ヴィパッサナー瞑想の面白い特徴は、何も座って瞑想している時だけでなく、やろうと思えばどんな場所でもできるということだ。「マインドフルネス」にも、「真剣に気づきの実践をする人は、坐って瞑想しているときであろうと、坐ってないときであろうと、昼も夜も常に現象に気づいています」(P.270) とある。そこで、駅からの帰り道に歩きながらこれを実践してみることにした。歩行瞑想というそうだ。

集中の対象は、呼吸でなく「歩くこと」にした。右、左、右… と足を繰り出している動きを観察してみる。やはりこれも呼吸と同様に集中し続けるのは難しくて、すぐに心はさまよってしまう。歩行瞑想が便利なのは、気が逸れたことに気づいて集中を戻す時に、どれだけの時間気が逸れていたかを歩いた距離で測りやすいことだ。歩くことに集中→気が逸れる→気づく→さっきの曲がり角からここまで気が逸れていた、という感じだ。

雨粒が顔に当たる感触や、冷たい風を心地よく感じることも観察しようとしたが、とても難しかった。「マインドフルネス」によると、仏教における認識の段階というのは、大体こんな感じらしい:

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雨が顔に当たれば(知覚)、「冷たい雨だ」と認識し(概念化)、「これ以上濡れたくないな」「風邪をひくかも」などと考える(思考)、というのが仏教における認識プロセスの考え方のようだ。瞑想初心者には、知覚の片鱗も本当に気づくことができているのかどうかわからない。

ヴィパッサナー瞑想の目的は、継続的に気づきを得ること、つまり「ありのままを知覚し、概念化しない」ことにあるようだ。しかし知覚と概念化は無意識が一瞬のうちに行うので、通常、それを別々のものとして「気づく」ことができない。無意識の領域で扱われるこれらのことに気づくためには、非常に深い集中力が必要になるのだそうだ。たかだか10日間の瞑想経験からしても、これが容易ではないことはよくわかる。

瞑想日記 9日目

夜8時/25分間

昨日は疲労で瞑想できなかった。まだあちこち身体が痛い。

本には「ヴィパッサナーの目的は、何にも妨げられることなくひたすら呼吸に集中することではありません/ヴィパッサナーの目的は、途切れることなく気づくことです」(P.238) とある。この点少し勘違いしていた。究極の瞑想状態は、呼吸だけに完全に集中している状態だと思っていた。ヴィパッサナーが目指すところは、どうやらそこではないらしい。気づくということが目的であって、呼吸に集中することは道具にすぎない。「実際の所、気づきの対象を呼吸にするか、心の散乱にするかということは、それほど重要なことではありません」(P.238) だそうだ。呼吸は最も普遍的なものだから気づきの対象の中心に据えられているだけで、肉体的、精神的などんな現象であれ気づきの対象になりうるし、それらに気づくことが最も重要なことだということなのだろう。

今夜は5分だけ長くした。途中でマメが部屋に入ってきて少し中断したが、瞑想自体長くは感じなかったのでよく集中できていたと思う。あぐらをかいて坐布に座ると足のしびれが強い。また背筋の張りからくる痛みも感じる。それぞれの痛みを観察の対象にするように努めた。背中の痛みを観察すると、観察している間は少しやわらいだ。足のしびれはどう観察してみてもやわらぐことはなかった。

運動不足だ。来週からまた暖かくなるようなので、身体を動かす時間を増やそう。

瞑想日記 8日目

朝11時/20分間

まだ軽い頭痛が残っている。顔を洗って目を覚まし、着替えてから瞑想。今日は雨がよく降っている。雨音を聞きながらの瞑想はなかなか気持ちがいい。

ふと昔付き合っていた人のことを思い出す。こういうことを思い出すのは、二人で高く積み上げた積み木の塔を最後には二人で壊してしまって、しかし全てが無かったことにしたくないから、それを片づけるのをためらっているからなのだろうな、と思う。積み木は全て片づけてしまっていいんだ。二人で積み木を積み上げた楽しい思い出だけ、心に残しておけばいい。

そんなことを考えてから、また呼吸に戻る。本には呼吸と雑念とを柱と象にたとえる一節があった。飛び回る心は野生の象のようなもので、それを気づきというロープで呼吸という柱に繋ぎ留めるのだと。

瞑想が正しい方向に深まっているのかどうかわからない。ヴィパッサナー瞑想を指導してくれる人に会ってみたいが、偽物につかまるのも嫌だし、どうしたものかな、と思う。

深夜2時/20分間?

10分瞑想するつもりでタイマーをセットしたらいつのまにかアプリが落ちていて、気付くと3時をまわっていた。眠気が強かったわりに集中できていたらしい。

「マインドフルネス 気づきの瞑想」をやっと半分ほど読んだ。読み進める度、瞑想で湧いた様々な疑問に事細かく答えていて、とても参考になる。簡単な入門書でなく、いきなりこの本を選んで正解だったと思う。

瞑想日記 7日目

午前10時/10分間

首筋の痛みが現れたとき、それを観察しようと努めた。痛みの範囲、強さ、深さを調べようとしたが、どれもぼんやりしていて、よく観る前に痛みは消えてしまった。よく考えると、今まで何か痛みを感じた時、こんな風に痛みと向き合おうとしたことはなかった。いや、頭痛には似たような対処をしたことがあった。頭痛薬がないのに偏頭痛が出て他にどうしようもなかった時に、感じ方を変えれば頭痛も軽くなるのではと思って、「この痛みは自分が生み出しているのだから、痛みは自分自身だ」と考えると、不思議と痛みが消えていった、ということがことが何度かあった。あれも「ありのままに観る」という点で同じことをしていたのだなと思う。

物音は多かったが比較的集中できていたようで、20分が早かった。調子のいい時は30分に伸ばしてみることにしよう。ただ、瞑想に集中することと、呼吸に集中することは違うような気がする。瞑想に集中できていても、呼吸に集中できていないことは多々あった。音とそれに対する自分の反応の見分け方はまだよくわからない。瞑想が筋トレと同じようなもので、続けていかないと効果を感じられない類のものだとしたら、その効果を感じられるのはやはり数週間後になるのだろう。楽しく続けられているので、気長にいきたい。

深夜1時/10分間

今日は午後から友人宅に招かれて楽しいひとときを過ごした。少々飲み過ぎてしまって頭が痛い。帰宅後、温かい風呂に入って緊張が解けたおかげで楽になったが、まだ少し頭痛が残っていたので、本の第10章に書かれている痛みへの対処の仕方に沿って瞑想してみることにした。

痛みを抑えようとせず、感覚を観察する。痛みそのものと、痛みへの身体の抵抗と心の抵抗をよく観る。痛みによって身体のどこでどんな抵抗(緊張)をしているのか。同時に、その身体の抵抗に対して、心はどんな抵抗(緊張)をしているのか。身体の抵抗と心の抵抗を分けて観ること。抵抗とは「私」と「痛み」のあいだにある境界線であり、自然な呼吸と共にその境界を通り過ぎると、分離がなくなって痛みと一体となり、苦しみが消える… これは本の要約で、文章に起こすと少々まどろっこしい印象になるが、実際にやってみるとこれらのことは一瞬のうちに起こる。痛みの観察を始めるやいなや、もはや痛みがどこにあるかわからない、という程早かった。もっとじっくり観察してみたかったのに、と思った程だ。寝床に就くとまた少し頭痛が出てきたので、布団の中で痛みを観察して、それが消えていくのを見守った。おかげよく眠れたと思う。

瞑想日記 6日目

午前11時/20分間

聞こえてくる音を感じる場所とそれに反応している場所とが少し離れたところにあるように感じられた。この自動的に反応している部分を、だんだんと小さくしていけたらいいなと思う。自動的に反応することを止めることができれば、どんな反応をするかを自分で選ぶことができる。それは感情から自由になるということだ。しかしそこで疑問に思うのは、すべての反応を一旦停めて自分で選択することは、悪い感情には効果的かもしれないが、何かに感動したり、感謝の気持ちを持ったりするような良い感情にもブレーキがかかってしまうのではないだろうか。マインドフルネスが創造性にはマイナスに働くという話も、このあたりが原因なのかもしれない。

集中はまだ深まっていないが、時折、一瞬だけ意識がギュッと鼻孔に集まるような感覚がある。それが集中できているということなのか、単にまだ眠いだけなのかよくわからない。本には「完全に目を覚ましてから瞑想するように」とあるので、朝の瞑想を始める前にはもっと目を覚ましてから取り組むことにする。

深夜1時/10分間

瞑想用の坐布を取り寄せた。今までは枕を丸めて坐布代わりに使っていたが、専用のものは高さと適度な固さがあって足が痛くなりにくい。足も安定した組み方ができ、姿勢も安定させやすいので、より集中できそうだ。

寝る前で少し眠かったので短めにした。あまり呼吸に集中できたとは思わないが、後半、強い光を斜め上から浴びているような感じがあった。集中が深まったのか、それとも単に寝そうになっていただけか?意識ははっきりしていたと思う。

瞑想日記 5日目

朝9時/20分間

昨夜と同様に「慈しみの言葉」を読むことから始める。手順が一つ増えてめんどくさそうだな、と思っていたが、案外そうでもない。言葉を辿りながら親しい人達の顔を思い浮かべるのは、悲しいような、嬉しいような、でも暖かい気分だ。どれほど強く念じながら読むべきかはよくわからないが、普通に読む速度に合わせて心から念じることにしている。

途中、物音で何度も気を逸らされたが、その度に「気を逸らした自分」を観るようにつとめた。反応というのは、普段あまりに自動的に行っているのでその仕組みがどうなっているのか意識することがない。映画「トゥルーマン・ショー」のように、自意識の壁一枚隔てた裏側では外からの刺激を処理する仕組みが休みなく働いている。壁を壊して、その中で何が行われているかをありのままに見なければならない。

深夜2時/10分間

眠すぎて途中で中断した。

始める前に「慈しみの言葉」を読んでいて、一番最初の段落の、自分へ向けた言葉が一番心から念じられていないことに気づく。それは自分のことはどうでもいいという投げやりな態度や、自分の幸せを追い求めることは自己中心的すぎるのではないか、という疑念があるからだと思う。「慈しみの言葉」を繰り返すだけで、この性質は変わっていくのだろうか。自己否定の根はひどく深くまで根を下ろしていて、簡単に解けるものではないと思う。

瞑想はあまりはかどらなかった。

瞑想日記 4日目

0時/20分間

「マインドフルネス」第九章の「ヴィパッサナーを始める前に」を読んでから瞑想。「慈しみの言葉」などと書くととても宗教臭さを感じるが、実際マインドフルネスは仏教をベースにしているので仕方がない。若干の抵抗感はあるが、まずは本の通りにやってみることにする。「慈しみの言葉」をよく念じること、「気が逸れたことをあるがままに観察してください」という言葉を頭に置きつつ挑戦。

言葉自体には抵抗感はあるが、本に書いてある通りエゴから一旦離れて、穏やかな気持で瞑想に取り組むために「慈しみの言葉」が必要だ、というのは理解できる。正直に言って、第九章を読んだ直後は、本の前半で述べられていた「道徳とはただ教えられたから行うものではなく、それが尊い行いだと自ら理解しているから行うものだ」という説明と矛盾するように感じられて抵抗があったが、実際やってみると確かに以前より落ち着いて集中できたような気がする。

「気が逸れたことをあるがままに観察する」という点については、発見がひとつあった。以前は気が逸れた時は、それに気付き次第なんとか呼吸に意識を戻す、という感じだったが、「気が逸れたことをあるがままに観察」しようとすると、たちどころに「逸れた気」そのものが消えてしまうのだ。これは今までにない、不思議な感じだった。あるときは、今日読んだ漫画のことを思い出して、「思い出した意識」を観察しようとすると、スクリーンから一歩離れてその漫画の場面を見ているように感じて、しかしそれも水に絵の具が溶けるように消えてしまった。

呼吸への集中は依然長く続かない。20分は短く感じるが、もっと集中できるはずだ。

瞑想日記 3日目

午後9時/20分間

自意識というのは、とにかく刺激が大好きなのだなと思う。静かにじっとしていると、たまに聞こえてくる物音がとても気になる。自分の中の子供が「あれは何!?」と叫んで、その刺激に駆け寄っていくかのようだ。あるいは何も聞こえず、何も見えず、何の刺激もないときは、昔の記憶や心配事などを引っ張りだしてきて、自分で刺激を作り出そうとする。自分の心は片時もじっとしていられない小さな子どものようだ。呼吸という最も小さな刺激に集中する訓練をすることは、それより大きな(大抵の)刺激への反応をコントロールできるようになるための訓練をすることなんじゃないかと思う。

まだまだ集中は深まらないが、心地よく、眠くもならずに瞑想することはできた。

瞑想日記 2日目

午前8時/20分間

起きて歯を磨き、朝食の前に瞑想。仕事に行く前に支度以外のことをするなんて何年ぶりだろう。半跏趺坐は当面組めそうにない。足のストレッチが必要だ。起きたばかりでも、心はあちこちに飛び回る。朝に聞こえてくる物音は意外と多く、なかなか集中できない。耳からの刺激に対してうるさいなと思うのは、自分の思い通りにならないことにいらだちを感じているのだなと思う。集中度は昨夜と同程度だったが、20分は比較的早く感じた。「呼吸をしている体」を、体の中にいながら離れた所から見ている感覚が少しあった。自然に息をしながら呼吸を観察することはまだ難しい。背筋を伸ばして座り、姿勢が崩れているのに気づいては直し、の繰り返し。

午後9時/10分間

帰りの電車でたまたま座れたので、試しに電車の中で瞑想ができるかどうか試してみた。当然だが物音や人の話し声が多く、そんな中で自分の呼吸だけに集中するのはとても難しい。全く集中できないわけではなかったが、当分は静かな場所でないと無理そうだ。

午前2時/20分間

寝る前に挑戦。眠気と、おそらく眠気から来る下半身のむずむずした感じが強く、ほとんど集中できなかった。非常に心地が悪く、何度も瞑想を中断しかけた。残り5分くらいが一番つらかった。集中できなそうなときに無理して瞑想するのはやめよう。